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※ これは「昭和の話」でございます。令和5年の今とは「不登校」の扱いや周りの対応など色々と違うと思うのですが当時の状況や心境をそのまま書こうと思います。ので、ご容赦頂けますと幸いです(/ω\)
小学校高学年から始まった「遅刻」も
中学一年生から始まった「不登校」も
「いけない事」という気持ちはあったし
「直さなきゃ」とも思っていたんです。
朝起きられない訳じゃ無い
体の具合が悪い訳でも無い
いじめられている訳でも無い
学校が嫌いだったという訳でも無い
じゃあなんで時間通りに登校出来ないのか?
どうして学校に行くことが出来ないのか?
親にも学校の先生にも友達にも聞かれましたが
自分でも理由が分かりませんでした。
「行きたくないから行かない」のではなく
「行かなきゃいけないと思ってるのに行くことが出来ない」
周りの友達が普通に出来ている事が
どうして自分には出来ないのか?
思春期独特の不安定さもあったのかもしれないけど
何が何だか分からない状態で出口が分からない
すごく苦しい時間でした。
学校に行かないで何をしていたか?というと・・・
何にもしていなかったんですよね^^;
当時はスマホどころか携帯もない時代だし
閉じこもっていた部屋にはテレビも無かったし。
ただグルグルと悩んで苦しんでました。
当時は「引きこもり」という言葉も無くて
(あったのかもしれないけど知られてはいませんでした)
学校に行かない子供の事を「登校拒否児」
と呼んでいました。
「登校拒否児=不良」みたいなイメージの時代(笑)
※私は違いますよ?(/ω\) ホントダヨ
「学校休んで遊びに行ってるんじゃないか疑惑」が
ささやかれたこともありましたが・・・
※イメージ↓
「まだその方が良かったんじゃないか?」
と思うくらい、家で悶々と苦しんでました。
貴重な青春時代を。。。あぁ勿体ない。。。
今思えば、すごく有難い事に・・・
私の話を聞こう、理由を聞こう、と
手を差し伸べてくれる人は居たんですよね。
後から聞いた話ですが・・・
そしてその話し合いの結果・・・
私は、友達達に合わせる顔が無くて・・・
居留守を使いました(; ・`д・´)ヒドイ!!
ゴメンナサイ(/ω\)。。。
※隣家に居た親戚が「何事か?」と我が家に来てくれて(←余計な事するな!とか思ってましたけど。罰当!)間に入って対応してくれました(親戚を通しての「明日は行く」という約束すら破る、という体たらく。。。)
金八先生?滝沢先生?(´;ω;`) ・・・女の先生だったけど。
「このままじゃダメだ」
ということだけは
自分でも分かっていたけど
自分でもどうなってるか
全然分からない自分の事 を
どう頑張っても
人に説明出来なくて・・・
悩みまくりつつ
荒んでいた※不良ではない
酷い時期でした(恥)
次回はこの頃の「母親との関係」の話を。
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